扉を開けた瞬間、着物をまとい、お客様を迎える自分の姿がふと浮かびました。
「生まれは大阪ですが、天野には曽祖父が建てた家があり、長期休暇には祖父母と過ごし、天野の小学校に通ったこともあります。大阪で仕事を辞めたあと、自然とこの大好きな天野に戻ってきました」
しかし、実家はすでにカフェとして使われており、住む場所がありません。そこで地域の方に紹介されたのが、現在のお宿となるこの古民家でした。
「最初は正直、そこまで惹かれていなかったんです。でも扉を開けた瞬間、一気にイメージが広がって。着物を着てお客様を迎える自分の姿が、はっきりと見えました」
もっとも、建物はかなり傷んでおり、「途中で現実に引き戻されました」と笑います。それでも最後に案内された部屋に祖父の絵が飾られていたことで、強いご縁を感じたそうです。
天野に戻ってから、「おかみさんをしないか」「店長になってほしい」と声をかけられることが続いていました。「天野で何かをしたい」という想いが高まっていた中での、まさに運命的な出会いでした。

生前「南峰」という画名で活躍していた祖父の絵を襖絵に加工。描かれているのは、宿から徒歩3分の場所にある世界遺産の丹生都比売神社。(写真提供:株式会社客殿)
古民家にかかる修繕費は想像以上! 正直、古すぎる施設はおすすめしません……

買い取った古民家の室内は老朽化が激しく、畳もへこんでいた。
古民家ならではのトラブルは日常茶飯事でした。
「雪の重みで瓦が落ちる」「水道管が破裂して蛇口が噴水状態になる」「屋根裏に小動物が入り込む」——。修繕のたびに、数十万円単位の出費が発生することも少なくありません。
さらに、最初に挑戦した助成金は不採択。
女性一人での運営体制や老朽化した建物、「一日一組限定」という宿のコンセプトが十分に理解されず、事業の将来性を不安視されてしまいました。
「正直、受かると思っていたので、当時はかなり落ち込みました」と客殿さん。
地方での起業、しかも若手で経営の経験もない立場。理想と現実のギャップに、何度も心が揺れたといいます。
うまくいかなかった経験が、次の一歩をつくってくれた

それでも立ち止まることなく、近隣の宿泊施設で働きながら業界を学び、農家を手伝い、地元の食材や文化への理解を深めていきました。コロナ禍で生まれた時間を使い、建物の掃除や片付けを自力で少しずつ進め、日本政策金融公庫の融資を活用して修繕も行いました。
こうした積み重ねを経て再挑戦した助成金は見事に採択。さらに、公益財団法人わかやま産業振興財団の「地域課題解決型起業支援補助金」も活用し、ようやく宿のオープンにたどり着きました。
起業を決意してから開業するまで約1年半。決して早いペースではありませんが、宿オープンのお披露目イベントには200人以上がかけつけるなど、多くの人に応援されるスタートとなりました。
創業3年目までは「資金繰り」と「メンタル維持」が最大の壁

「一番大変だったのは、資金繰りとメンタルの維持でした」
不安や落ち込みを感じたとき、支えになったのは、地域の方々や、以前の仕事を通じて出会った人たち、そして支援機関の存在だったと客殿さんは振り返ります。
「わかやま産業振興財団の地域課題解決型起業支援事業チームの岡先生には、折に触れて相談していました。お宿の料金設定をお伝えした際に、『安すぎるのではないか。もっと自信を持っていい』と言っていただき、それが価格を見直すきっかけになりました。また、県のクラウドファンディングに挑戦してみてはどうかと、最初に背中を押してくださったのも岡先生です。起業後には、起業を志す方に向けた講演会に登壇する機会もいただきました」
現在も、気持ちが沈んでしまうことはあるといいます。
「そんなときは、一人で抱え込まず、周囲の方に相談するようにしています。すると、励ましの言葉をかけてくれたり、お客様を紹介してくれたり、活用できる制度を教えてくださる方がいます。私自身も、お越しいただいたお客様に、天野の魅力や周辺のお店、施設をご紹介しています」
こうした支え合いの輪の中で、事業は続いてきました。
「本当に多くの方に支えられて、今の私があります」
リピーターの数珠繋ぎ
現在、お客様の約8割がリピーターで、半数以上が県内の方です。
宿・ホテル予約サイトは未登録ですが、それでも口コミや紹介だけで数カ月先まで予約が埋まる宿へと成長しています。
「1組だから気にせず家族ですごせて嬉しい、年に3回ほど予約してくださる方もいます」
一方で、資金繰りの苦労は今も続きます。
古民家特有の突発的な修繕、冬場に跳ね上がる光熱費、売上の波。
宿の予約がない時は外で働きながら、事業を守り続けてきました。
しかし、客殿さんは行く先々で新たな縁に恵まれます。出会った人が宿泊してくれたり、新たな仕事につながったりするのです。
そして3年目以降、事業は少しずつ安定し、経営やお金の勉強にも本腰を入れられるようになりました。「残せるお金」を意識し、固定費を見直し、無理のない形で事業を続ける。その積み重ねが、2025年の法人化、そして2026年春のリニューアルオープンへとつながっています。
お宿リニューアルのコンセプトは「心ほどけるひとときを」

お宿リニューアルのコンセプトは、「心ほどけるひとときを」です。その背景には、「目の前の人を大切にしたい」、「心が温まる空間」と「丁寧に過ごせる時間」を届けたいという、客殿さんの一貫した姿勢があります。
そんな客殿さんに目の前の人を大切にするコツをお聞きしました。
「大勢で話すよりも、少人数でゆっくりとお話しすることです。それに、会う回数を重ねること。そして、誕生日や記念日など、その人にとって大切な日を覚えておき、お祝いさせていただくことですね」
現在は、こうした想いをさらに形にするため、一度お宿をクローズし、リニューアル工事を進めています。1階だけでなく2階のトイレの増設、要所のバリアフリー化、造園などを含む大規模な改装に取り組んでいます。より一層、より心地よく、安心して過ごせる場所へと進化させる予定です。
法人化と将来の夢「天野で介護施設をつくりたい」
客殿さんは、起業のタイミングで、2025年の30歳になる年に法人を設立する事を目標にしていました。無事に目標達成。
そして「株式会社客殿」の設立を機に、他社の宿の空間デザインのコンサルティングなど、新たな仕事の依頼も増え、金融機関からの信用も高まりました。
そんな客殿さんの将来の夢は、天野で介護施設をつくること。
「大好きな天野で、地域の皆さんが、安心して年を重ねられる場所をつくりたい」
天野でお客様や地域の人たちと交流する中で、日増しにその想いが強くなっているといいます。そのためにも、まずは宿を続け、地域の方により信頼される存在になっていきたいと話します。
起業を目指す人へのメッセージ
「一番大切なのは、自分を信じること。そして、目の前の人を大事にすることです。
地方での起業は、決して一人では成り立ちません。支援制度や融資、そして人とのご縁をどう活かすかが、事業継続の鍵です」
一人で抱え込まず、相談することで道が開ける
客殿さんの歩みから見えてくるのは、補助金や公的支援を「特別なもの」ではなく、「挑戦を続けるための手段」として捉える姿勢です。
不採択も含めた経験が事業を磨き、より良い形につながっていきました。
「一人で抱え込まず、相談することで道が開ける」——その実感が、次の挑戦者の背中をそっと押してくれます。
わかやま産業振興財団では、創業期の悩みに寄り添う支援を行っています。
起業を考え始めたばかりの方も、ぜひ“頼っていい存在”として選択肢に入れてみてください。

客殿 りこさん プロフィール
1995年大阪府生まれ。
はじめてのアルバイトで接客業に携わり、人と関わる楽しさを知る。ご縁に恵まれホテル内飲食店に勤務し、接客の奥深さとやりがいを実感する一方、人生に立ち止まる時期を迎え、車の部品工場へ転職。そこで出会った仲間の温かさや会長の生き方に触れ、「自分も何かを形にしたい」と思うようになる。
その後和歌山へ戻り、住まい探しの中で地域の方に紹介された一軒の家と出会う。傷みのあるその建物に当時の自分を重ね、「ここから一緒に成長していこう」と決意したことが、現在の原点となっている。
| 会社名 | 株式会社客殿 |
|---|---|
| 所在地 | 〒649-7141 和歌山県かつらぎ町上天野160 |
| 開業 | 2020年 |
| 設立 | 2025年 |
| TEL | 080-1514-4351 |
| URL | https://www.instagram.com/oyadonanpouan/related_profiles/ |
| 事業内容 | お宿 南峰庵の運営、宿コンサルティング |
| 従業員数 | 15名(アルバイト含む) |
客殿さんが活用した「わかやま地域課題解決型起業支援補助金」の詳細はこちら

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